病気の記録

個人情報だから開示できませんというのが嫌いだ。
みんな自意識過剰なんじゃないかと思う。
不正利用されるとかを心配するようだが、大したことではない。

だって人生短いんだ。
私の個人情報など隠すほど立派なものじゃない。

それより私の情報から、誰かが何かを得てくれたほうがいい。
この世界からいなくなって、誰の記憶からも消えてしまうのであれば、せめて誰かの役に立つ何かを残すことを選びたい。

だから私がかかった脊髄小脳変性症という病気の経過を記録しておくことにした。

平成25(2013)年2月頃から

歩いているときにふらふらする感覚を覚えはじめた。
ちょうど政府機関(内閣官房)への派遣が終わり警視庁(外二)に戻った時期なので、環境の変化によるものか、運動不足によるものと思い、あまり気にしてはいなかった。
よく考えれば運動不足のわけはない。
朝のジョギングを続けていたのだから。

仕事中に、椅子に座ったり立ち上がったりする際、ふわりとした感覚に襲われてよろけることがあった。
周囲からは「大丈夫ですか?」などと失笑を買っていた。
しかし、常時ふらついていたわけではないので、特段不自由はないし生活上困ることなど皆無だった。

平成26(2014)年3月

公安部外事二課(外二)から石神井警察署へ異動となった。
久しぶりの制服勤務に加え、4交代制で当番があるのは身体にこたえた。
歩行中のふらつきは増していた。

父は、52歳で他界している。
脳腫瘍だった。
塊で腫瘍ができるのではなく、脳に染み込んでいくタイプだったので手術もできず、手の施しようがなかった。
発病から1年半くらいで亡くなったと思う。
父が早世しているので、自分もこの歳になると何かあるのではないかと気がかりであった。
だから平成25年の夏、脳ドックを受診した。
結果は異常なしであった。頸動脈硬化の傾向があるため経過観察と書かれていた。

それにしてもこのふらつきは何なのだろうという疑念が払拭できなかった。
どう考えても原因があるはずだと思い、妻の勤める病院(多摩北部医療センター)でMRI検査を受けられるようにしてもらった。

平成26(2014)年7月18日(金)

脳神経外科の岡田隆晴医師が担当で、脳腫瘍の疑いを確認するためのMRI検査を受けた。
検査結果は7月22日に妻が聴いてくれた。

  所見
   拡散異常を認めません。
   大脳半球には異常所見を認めませんが、小脳がやや萎縮しています。
   脳幹に信号異常や萎縮像は認めません。

  診断
   小脳(上端部寄り)萎縮 変性疾患r/o ください。
   (つまり小脳萎縮の変性症とみられるので診断してもらえということ)


この段階で、すでに脊髄小脳変性症は確定的であった。
岡田医師から神経内科の三谷和子医師を紹介してもらい、8月4日に診察を受けることとなった。

三谷医師は、母(脊髄小脳変性症)の主治医である。
遺伝性の脊髄小脳変性症だと診断された。
「残念ながら」という医師の一言が、すべてを物語っていた。

三谷医師から、遺伝子検査を受けるかどうかの判断を促され、迷うことなく受けることを希望した。
遺伝子検査を受けることにより、この病気の今後の進行度合いを予測することが可能となり、子供への遺伝の有無がわかるらしい。
今後の人生設計を考えれば、必須の検査だろう。
また、子供がキャリアなのかどうか知っておくことも、残酷だが必要なことだ。

三谷医師が紹介状を書いてくれた。
妻が国立精神・神経医療研究センター病院に連絡し調整してくれ、9月11日に受診予約できた。
先々まで予約で混んでいてなかなか空きがなかったそうだ。

これまで妻には、さんざん迷惑をかけてきたのに、ここでまた私の病気だ。
ほんとうに申し訳ないという気持ちだった。

平成26(2014)年8月19日(火)

勤務終了後、豊田地域課長代理に呼ばれ個別面接を受けた。
「病気のほうはどうですか?めまいはあるんですか?」と聞かれる。
「めまいは四六時中あるんですが、いつものことですから…」などと適当に答えると、「どんな感じなんですか?」と聞くので、「そうですね、常に飲酒して酔っ払っているような状態とでも言いましょうか…」と答えた。
すると「それじゃあ、車の運転とか危ないですねぇ。巡視とか大丈夫ですか」と言う。
私としてはつまらない人間関係に辟易していたので、すぐにでも辞めたいと思っていたが、そこは大人の対応で、「歩いているわけではないので、特に問題ないと思います」と答えた。
「私としては、診断結果を健康管理本部に報告して管理区分を変えてもらい最終的には軽勤務という形を考えているんですよ」とのことであった。
これについて私も異論はなく、そういう方向が望ましいと思っていた。
軽勤務の内容が気にはなったが、とにかく当時の勤務環境は精神衛生上よろしくなかった。

平成26(2014)年9月11日(木)

国立精神・神経医療研究センター病院初診。
担当は神経内科の塚本忠医師だった。
がらっぱちな口調で繊細さに欠ける印象を受けた。
この日は医師に自覚症状を説明し、遺伝子検査のための血液を採取した。

平成26(2014)年9月12日(金)

地域第1係から地域総務係へと勤務換えになった。

平成26(2014)年10月7日(火)

警視庁健康管理本部からの健康管理区分変更通知を示達された。
日付は平成26(2014)年9月12日で、勤務換えとなった日に合わせてあった。
これにより警察官としての通常勤務には適さなくなり、事務色の強い「軽勤務」扱いとなった。

平成26(2014)年10月24日(金)

国立精神・神経医療研究センター病院にて塚本忠医師に受診した。
遺伝性の脊髄小脳変性症(SCA6)であり、子供への遺伝の可能性があると診断を受けた。

平成26(2014)年11月7日(金)

国立精神・神経医療研究センター病院にて診断書を受領した。
狭山保健所にて特定指定疾患の申請を行なった。

平成28(2016)年6月10日(金)

国立精神・神経医療研究センター病院にて塚本忠医師に受診した。
この日まで数ヶ月おきのペースで定期的に受診していたが、以後、退職や沖縄移住の煩雑な毎日に流され受診しなくなった。
実際、この頃は日常生活に支障をきたすことなどなかった。
常に付きまとうめまいのようなふわふわ感はあったが、ジョギングも出来たしまだまだ精神的に強かった。

平成28(2016)年から平成30(2018)年

いろいろな出来事が凝縮されたような2年間だった。
退職、移住に伴う義父母宅や自宅の建築、事業計画作成とその実行。
毎日忙しくも充実していたから、病気など気にならなかった。
いつか身体が不自由になることは分かっていたが、遠い先のことのように思っていた。
かすかに病気の進行を感じてはいた。

平成30(2018)年夏頃から

常に病気への不安が覆いかぶさってくるようになった。
自分には主治医がいない。
病気が進行しても診てもらえる病院がない状態だった。

平成30(2018)年8月17日(金)

国立精神・神経医療研究センター病院に相談の電話を入れ、沖縄で診察を受けたいと伝えた。
担当医師の診断書を受診予定の病院へ提出する方法があるとの教示を受けた。

平成30(2018)年8月27日(月)

国立精神・神経医療研究センター病院に宛て「診断書作成依頼書」を送付した。

平成30(2018)年9月28日(金)

国立精神・神経医療研究センター病院にて「情報提供書」を受け取った。
「診断書」ではなく「情報提供書」なのだそうだ。

平成30(2018)年10月16日(火)

事前に調べて診察依頼していた「ちばなクリニック」から診察できないとの連絡があった。
琉球大学附属病院へ状況を説明し受診の可否を問い合わせたところ、待ち人数が多いため沖縄病院を紹介された。
沖縄病院へその旨を伝えると、受診可能であるとの回答を得た。
受診先が変更になった旨を国立精神・神経医療研究センター病院へ連絡し、塚本忠医師に了承を得た。

平成30(2018)年10月29日(月)

沖縄病院にて初診。
担当は神経内科の妹尾洋医師だった。
医師からは、病状を詳しく把握するために検査入院することを強く勧められた。
断る理由もなく、これを承諾した。

平成30(2018)年11月26日(月)

沖縄病院へ検査入院した。
プロチレリン点滴投与による症状の経過観察を行なうと説明を受けた。

平成30(2018)年12月10日(月)

沖縄病院を退院した。
担当の妹尾医師からの説明では、投薬の効果があったとのこと。
退院後は点滴と同等成分の経口薬(タルチレリン)を処方するとのこと。
以後、2〜3ヶ月ごと定期に通院することとなった。

令和2(2020)年10月3日(土)

朝のジョギングはこの日までだった。
妻が腰痛になり並走してもらえなくなったためだ。
それまでは、ムラはあるものの週4〜5回のペースで走っていた。
この頃はスピードは出せないが普通に走れた。

令和2(2020)年11月5日(木)

ジョギングを再開した。
朝ではなく単独で夕方走るようにした。

令和2(2020)年12月7日(月)

ジョギングの最中、雨あがりのため路面が濡れており、滑って大転倒した。
右膝をしたたか打って、ジャージに穴が空いた。
打撲程度で怪我はなかった。

令和4(2022)年春

この頃から映画館に行ってスクリーンが楽に見える後方の席に座ると、介助なしで階段を降りてくることが出来なくなった。
ショッピングモールのような人混みでは眼が回って歩行がおぼつかない状態になっていた。
妻に相談し杖を購入した。
当初は転倒防止というより、身体が不自由なことの周囲へのアピール用であった。
そうすることによって身体接触を避けることができ危険防止になった。

令和4(2022)年10月26日(水)

この日以降しばらくジョギングを中断した。
理由は夜中にトイレに行く際、運動失調により右足を強く家具にぶつけたため甲の骨にヒビが入ったからだ。

令和5(2023)年1月4日(水)

右足はまだ痛んだが走れないほどではなかったので、ジョギングを再開始した。
これほどまで体力が落ちるのかとショックを受けた。
以前の体力を回復させるには相当走り込まなければならないと感じた。

令和5(2023)年2月17日(金)

前日まで普通に走れたのに、突然右大腿痛を発症し走れなくなった。
体幹を維持できず、バランスを崩して不自然な負荷が右足にかかったのか。
あるいは前年10月に故障した右足をかばって走り続け、余計な負荷がかかったのか。
いずれにせよ激痛のためまったく走れなくなった。

令和5(2023)年4月2日(日)

右足の痛みも引きしばらく経過したので、妻の勧めもありジョギングからウォーキングに切り換え歩いてみた。
走るどころの話ではなく、歩くのもやっとだった。
一歩踏み出すにも足が言うことを聞かない。
自分の身体ではないような不思議な感覚だった。
体力も呆れるほど落ちた。
運動による汗というより、思うように歩けないことを知った冷や汗でびっしょりになった。

以前山登りの時に使っていた登山靴と両ストックという格好で、ひたすら転倒しないように山間部の閑散とした舗装路を4kmほど歩く。
毎日歩きたいところだが、気が進まない日は歩かない。
そのほうが割と長く続く。
2日に1回のペースで夕方歩いた。

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